【イケゾエガレ&ロミオ兄弟】
まず読者の諸君にこの宝石総合メディアである「イケゾエガレ&ロミオ|王の名を冠する宝飾家」を主宰している、私たちイケゾエガレ&ロミオ兄弟について、簡単だが自己紹介をさせてもらいたい。
現在の宝石業界には「ジョエル・アーサー・ローゼンタール」という天才宝飾家が存在する。
彼は通称「JAR(ジャー)」と呼ばれ、そのファンタジーあふれるデザイン及び芸術センスはジュエリー業界に強い影響を与える「現代のカリスマ」であり、彼の作品は海外の高級オークションの代表格サザビーズやクリスティーズなどで1作品あたり数千万円から数億円で取引されていることで知られる。
イケゾエガレ&ロミオ兄弟は、ジュエリー業界の現代のカリスマである宝飾家ジョエル・アーサー・ローゼンタール氏を自分たちの「Meister(マイスター)」と定め、その後姿を追う新進気鋭のデザイナーだ。
ここから私たちイケゾエガレ&ロミオ兄弟の人生を振り返りたい。
あれは確か数十年も昔になるが、今思えば私たちイケゾエガレ&ロミオ兄弟は、中学時代は休みがちの登校拒否をする多感な少年だった。
とくに「君たちはアスペルガーかもしれないから精密検査を受けるべきだ」と当時の担任にいわれ、母親に連れられてアスペルガー症候群、現在でいうところの「ADHD」の検査を総合病院の精神科にて受けた覚えがある。
診断結果は「極めて正常」だった。
教育学的にいえば、私たち兄弟が教師には理解できない存在だったのだろう。
そもそも彼らの教育学術的解釈で一人の人間(多感な時期にある青年)を理解するには限界があれば、むしろ芸術家という分野の人間を推し量ることは難しい。
なぜなら彼らは生まれ持っての感性の塊であり、元来から知性で感性を推し量ることは難しいものだ。
過去を述懐すれば、ガレは不良少年であり、ロミオはいじめられっ子だった。
よく二人を知る知人友人からは、小説『宝島』で知られる英国作家ロバート・スティーブンソンが執筆した小説『ジキル博士とハイド氏』に例えられたものだ。
二人は高校一年時の時、授業の無意味さから不登校となり、昼間から姫路市の公営図書館に入り浸っていた。
まさにそれは二人が知るうえで膨大な知識の宝庫だった。
学校でつまらない勉強に時間を浪費するよりも、自分たちの興味のあることに限られた青春の時間を費やすことのほうが二人にとって有意義に思えたのだ。
そもそもイケゾエガレ&ロミオ兄弟には、愚かにも広大なるロマンといえる『自由業(フリーランス)』への憧憬があった。
何よりも自由を愛し、自由に忠誠を誓い、お金よりも自由のために生きることを選択する青年だった。社会にでていない未成年とはいえ、それは学歴社会・門閥社会の日本において明らかに愚かなことであった。
というのも二人は、幼少の頃から母の知り合いでもあった地元姫路在住の老画家に絵の手ほどきを受けており、兄弟の未来設計において画家で生計を立てる、つまり『自由業』で生計を立てるというのも選択肢の一つだった。
幼少期からイケゾエガレ&ロミオ兄弟が師事していた老画家は、身体にハンディキャップをもつ偉大な画家であった。
画伯は生まれながらの身体障害(記憶が定かであれば先天性小児麻痺だったと思う)などにも決して負けず、むしろ障害を乗り越えて、洋画壇の前衛派閥「独立美術協会」に属する正会員画家だった。
健常者さながら『一人前の画家』として、地域で絵画を教えながら受講料を得て生計を立てていたほどだ。
今思えば老画伯は素晴らしい人生の挑戦者であり、偉大なる無名画家であったと思う。
その偉大なる老画伯は私たち兄弟に「君たちには類まれな芸術の才能がある。その自由な発想力とインスピレーションに敬意を表したい。僕は君たちが将来『芸術家』になることを心から切望する。どうかその才能を惜しみなく世の中に見事に花咲かせてほしい」と激励の意味も込めて、未来の設計図を偉大な無名な大芸術家から受け取ったことは今でも忘れ難い。
偉大な老いたる画家から「芸術家への片道切符」を贈られたというわけだ。
イケゾエガレ&ロミオ兄弟はその言葉を純粋に受け止め、その日から芸術家の道を無意識に志向し始めた。
それは学校では決して学べない『かたちのない何か』だった。
その経験が現在の私たちを形作る要因となり、強いてはジュエリーブランド「イケゾエガレ&ロミオ」の精神的な骨格をつくり、ブランドコンセプトになったことは間違いない。
さて高校に行くことを昼間からさぼり、市内の図書館で古今東西の知識に触れていた無名にして愚かなイケゾエガレ&ロミオ兄弟は、同級生が勉学と運動に勤しむ中、先人たちの記憶集合体である知の殿堂から様々なインスピレーションを得ていた。
なぜならブランドというものは「デザイナーの生き方」そのものであり、製品価額にはデザイナーの『人生観』と『美意識』が必ず担保される。
それゆえにブランドメーカーはコンセプトを重視し、それを世界に向けて発信していく。
結果的に多くの支持者と一定層のコアなファンの共鳴を得ることによって、世界市場に対して「世界的ブランド」としての地位が確立していくものなのだ。
兄弟の忘れ得ぬ知識として、書物の中で深く学んだ『アール・ヌーボー』と『アール・デコ』という芸術概念は、今思えばイケゾエガレ&ロミオ兄弟の『美意識』を大きく形作り、現在のジュエリー芸術活動の土台及び礎になっていることは否めない事実だと思う。
ピラミッドは決して頂上から作れないように、優れた美術や芸術には『記憶として何世代もの優れた知識の継承、経験が必要不可欠』といえる。
それなくして人を感動させることなど土台無理な話だ。
イケゾエガレ&ロミオ兄弟の『美の出会い』は、約1世紀前とはいえアール・ヌーボーと呼ばれる美術運動の先駆者であったエミール・ガレやアール・デコのルネ・ラリックというフランスの美術工芸家の作品に興味を抱くことに始まる。
そして印象派の巨匠であるクロード・モネ、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ等々の素晴らしいマエストロの作品と彼らの生き方により何かしらの衝撃、いや芸術全般に関するインパクトを受けたことは今でも忘れることはない。
しかし知識の殿堂で自由に学ぶ半面、現実は甘くはなかった。
現実は砂糖というよりむしろ唐辛子といってもよく、受け入れざる負えない過酷な現実、否、辛い現実が兄弟に待ち構えていた。
そう留年である。
それは一つと年下の同級生を同じ学び舎で学ぶことになるわけだ。
青春時代の1年間というものは「女性の1年間が男性の10年間に匹敵する価値がある」といわれるように、心を病んでいたイケゾエガレは年下とともに学ぶことにどうしても精神的な抵抗があった。
短気のイケゾエガレは愚かにも下級生との挑発に乗り、些細なことで喧嘩をして進学コースの高等学校を『退学処分』となる。
簡単にいえば、今でいうところの「下級生による上級生への留年いじめ」というものであったが、もはや過ぎ去った過去のことであり、当事者がどのような意図でイケゾエガレを虐めていたのかは分からない。
時代が時代とはいえ、今であれば何らかのハラスメントということで問題になっていたかもしれない。
ガレ自身も触れたくもなければ、思い出したくもないとのことから詳細は記載しない。
ただ残されたロミオは、双子ゆえに居ずらくなり、市内の通信制高校に転校することになった。
イケゾエロミオはその時、海外で絵を描く仕事をしたくなり、英会話教室にも通っていた。転校理由は外国に行くための資金稼ぎだった。
今思えばイケゾエロミオにとって留学の本気度数は50%、残りの50%は「日本の高等教育の息苦しさからの逃避だった」、詩的にいえば「モラトリアムへの抵抗」だったと思う。
通信制高校に移行後は、ロミオの留学志向は徐々に薄らいでいった。
自分のペースで勉強ができる通信制高等教育は、イケゾエロミオにとって非常に相性の良いものだった。
市内の通信制高校を卒業するまでの間、彼は偉大なる老画伯のアトリエに通いながら芸術活動と勉強の両立に励んだ。
やがて退学に追い込まれた兄ガレもロミオのすすめにより通信制教育に通い、同年代とは一周まわりの遠回りになったものの二人は無事に通信制高校を卒業した。
通信制高校に通う傍ら、兄のイケゾエガレは詩人と小説家を目指していたこともあって、語彙力を磨くため様々な小説を読んでいた。
そのなかで「これは面白いぞ! このファンタジー小説は必ずベストセラーになるから読んだ方が良い!」とある魔法使いの小説、英国のシングルマザーが書いたファンタジー小説を弟のロミオに薦めてきた。
イケゾエガレ&ロミオのジュエリー作品は、多くのファンの方から「英国的なファンタジー要素を感じる」とお褒めの言葉をありがたくも頂戴するのだが、それは通信制高校に通う傍ら、夢中で読みふけった現代英国を舞台とするファンタジー小説「ハリー・ポッター」シリーズの影響が少なからずあるのかもしれない。
第一話
神戸での無給労働の日々に続く