第一話:神戸での無給労働の日々

ときはイケゾエロミオが市内の通信制高校に通っていたときに遡る。

通信制高校に通いながら『絵画制作』に励んでいたイケゾエロミオ。

ある日、とある地方画壇の審査会においてロミオの作品が審査員合格、地方画壇の「奨励賞」「入選」等を受賞した。奨励賞作品は会場に有難いことに展示され、その画壇で同じ姫路市在住の画家と出会うことになった。

彼は『片腕』がなく、この画家のことをロミオは『片腕の画家』と呼んでいた。

ロミオは画家として生活する方法をその片腕の画家に求めたところ、彼は「生活のために作品とは別に『売り絵』を描くことだ」と駆け出しの画家、画家心得のイケゾエロミオに勧めた。

売り絵、つまり日々の生活費を得るための絵である。

ロミオは「売るための芸術は嫌だな。精神的に疲れるし、クリエイティブ意欲を失う。クリエイティブ意欲をなくさずに『売れる芸術』ってないだろうか」と悶々としていた時、「まさに漫画は売れる芸術! クリエイティブの塊じゃないか!」と片腕の画家の勧めである売り絵ではなく、漫画家になることを突然に決意する。

計画性のない突然の決意ほど世間一般でいうヤバいものはない。

「画家として個展を開催しても生活はできない」ことは、すでに駆け出しのイケゾエロミオは本能的に分かっていた。いやむしろロミオだけでなく、まともな判断ができる者たちは画業で生活することを選ばないだろう。

そこで『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズの荒木先生の荒木飛呂彦原画展、荒川弘先生の『鋼の錬金術師展』など多くの漫画家が売れたあとに個展を開催していることも含め、それなら同じ個展を開いても来展者が多く、ファンに支えられる「漫画家の道」をイケゾエロミオが選んだのは当然の結果、行き着く道だった。

漫画家を目指して一年、ロミオは「一ツ橋グループ」に属する大手出版社の少年月刊誌に作品投稿を繰り返す。

有名な漫画家についてアシスタント漫画家として勉強したわけでもない、独学のイケゾエロミオにとって「才能があるかどうか」「漫画家として有望かどうか」など自らの作品批評は気になるところだった。

そこでロミオは某編集部に電話で評価を求めた。

そのおり電話の応対をしてくれた編集者(数年後、某週刊雑誌の編集長となる人だ)が「これからは私が君の担当編集になるよ」と大変有難いことにロミオの担当者になった。

担当編集が付くということは、プロの漫画家として生活するための一歩前進ともいえる。

担当編集も付き、モチベーションが上がったイケゾエロミオは、本格的に漫画家になるため、大手出版社が本社をかまえる東京都千代田一ツ橋(通称:神保町)に漫画原稿の持ち込みに行った。

しかし担当編集からのアドバイスは「これは漫画じゃないよね! これはもはや童話だよ、童話。姫路から東京までの電車賃、ご苦労さん! 早く田舎に帰りな」と超辛口だった。

文字どおり東京は姫路生まれの田舎者(通称:イモ男)には冷たかった。

帰りの新幹線のなかでロミオは「漫画家になるには根本的に足りないノウハウがある」ことを思い知らされ、現実に打ちのめされ、世の中にはどうしても超えられない壁があることを知った。

世間一般で語られるところの「才能」という壁だ。

そんな絶望のなかでロミオは「僕は辛口のカレーを食べるとアレルギーが出るんだ!(とくに100円均一のカレーはヤバい)」とわけの分からない言葉を吐き出しながら帰途につく。

今思えばイケゾエロミオの辛口カレーのアレルギーは某編集担当が原因かもしれない。

翌日、イケゾエロミオは漫画の筆を折り、一年余りの漫画家見習い生活を諦めた。

計画性のない突然の決意は、こうして姫路の地にて静かに幕を閉じた。

大東京からもどり、地方都市の姫路で悶々とした日々を過ごすイケゾエロミオ。

傷心癒えない彼に待っていたのは「夢は見るものであって食うもんじゃない。ちゃんと働くんだ! 働かざる者食うべからず! だから言っただろう! 東京人はイモ男には冷たいって!」と父親マサトの一喝だった。

イモ男には冷たいの一言は余計だが、それ以外は至極真っ当な一言でもあった。

後日、イケゾエガレ&ロミオ兄弟は父親が経営する神戸市にあるスーパーマーケットの惣菜テナントFCで働くことになった。

彼ら兄弟の肩書きは「惣菜店アルバイト、パートより下、たぶん丁稚扱い」だ。

惣菜屋の仕事は、惣菜商品の品出しから始まり、夕方に値引きのシールを貼って終わるという一連の単純作業だ。こうして二人はアルバイトスタッフとして雇用されながら「惣菜屋出身の芸術家」を目指すことになった。

しかしながら父親が経営する惣菜屋FCは、売上がかんばしくなくイケゾエガレ&ロミオ兄弟の給料を満足に支払うことができなかった(いやむしろ払おうと思えばアルバイト代くらいは捻出できたと思う)。

ちなみに惣菜店FCの従事者は、イケゾエガレ&ロミオ兄弟の両親と数名のパートの子育てが終わったマダムたちだ。

そして飲食業によくあるあるだが、雇用しているパートさんには給料をしっかり支払うものの身内には絶対に支払わない、という父親マサトの徹底した守銭奴ぶりは世でいうブラック企業経営者そのものだった。

その日からイケゾエガレ&ロミオ兄弟の社畜生活が数年間続くことになる。

月日は瞬く間に過ぎ去る西暦2000年。

グレゴリオ西暦2000年は「ミレニアムの時代」と騒がれ、世界は同時多発テロ後のきな臭い雰囲気が流れていた。

社畜化されたイケゾエガレ&ロミオ兄弟は売上を少しでも上げ、自分たちの給料を稼ごうと何でもやった。

そのためにまず契約書をすべて熟読した。どうやら父親の惣菜屋はフランチャイズ契約に基づくもので、 ある一定の数量をFC本部から材料を仕入れることが条件となる契約内容となっていた。

その一つの仕入項目に『野菜サラダ』があった。

これはお店の定番商品ともいえる営業商品であり、売れ筋商品でもあった。イケゾエガレ&ロミオ兄弟は、この野菜サラダをFC本部を通さずに、自分たちの力で作り販売することにより、会社の粗利益を高めようと試みた。

実際、この企画は上手くいったものの、兄弟の二人分の給料を生み出すまでの売上高を稼ぐことはできなかった(実際は稼げていたが売り上げ減少の補填に知らずしらずのうちに使われていた)。

結局のところ二人にとって手間のかかる仕事が増えただけだった。

無給労働の中、イケゾエガレ&ロミオ兄弟は不安に苛まれていた。

職場環境は、ほとんどが自分の母親と同じ年齢の人たちだからだ。

ときに兄弟は「もう自分たちは一生給料ももらえず、このままこの惣菜屋で自分の人生の大半を終えるのかもしれない」という恐怖に襲われ、パニックに陥り、呼吸困難になり、持病の喘息・アレルギーが悪化した時もあった。

父親マサトが無給労働に申し訳ないとの思いからか、たこ焼きを売るための小さな屋台をスーパーマーケットの店長と交渉し、出店を勝ち取ってくれた。

その日の夜、ガレとロミオは父親に命令され、疲れている体に鞭を打ち、たこ焼き屋の屋台をこしらえた。

父親マサトも人の親である。

自身が経営する惣菜店では、イケゾエガレ&ロミオ兄弟の給料が出ないとのことから「今日から『露店商』として自分たちで売上を上げて給料を稼ぐんだ! 働かざる者食うべからず! 今日からイモ男はタコ男になれ!」とのことだった。

ときは就職氷河期時代、デフレ真っ最中だ。

そこに留めの一撃ともいえる話が一家の耳に飛び込んできた。

それは父親マサトがテナントとして入店するスーパーマーケットから数キロ先に大手スーパーマーケットのイズミヤのショッピングモール出店が電撃的に決まったのだ。

「イズミヤ」は近畿一円を地場とするイズミヤ・阪急オアシス株式会社がスーパーマーケットチェーンだ。H2Oリティリンググループの一角を占める。グループ入りしたのは最近の話であり、当時はイズミヤ単体の資本であったと記憶する。

イズミヤができれば、父親の事業は即破産を意味していた。

だが父親マサトにイズミヤ開店の止めるすべはない。

運命のカウントダウンまで数年、さらに経済不況が彼らを嵐のように襲う。

父親の惣菜屋の売上も徐々に減っていく現状の中、顔見知りのパートのマダムたちが一人二人と姿を消していく。

そんななかマダムの一人、マダムKさんが病気で入院してしまった。

その日からイケゾエガレ&ロミオ兄弟は惣菜屋出身の芸術家」から露天商出身の芸術家」へとなった。 同時にイモ男からタコ男になった。兄弟はいつの日か「人間にもどること」を念頭にたこ焼きを焼き続けた。

飲食業の人手不足は今に始まったわけではなく、慢性的な職業的課題だ。パートの必要な人員が確保できず、 イケゾエガレ&ロミオ兄弟の仕事のルーチンワークは、まず午前中に惣菜店の品出しやラベル張りを手伝い、午後から「たこ焼きを焼く」という流れが望む望まず確立していく。

たこ焼き屋の売上は「惣菜屋の三分の一程度の売上」だったが、なぜかイケゾエガレ&ロミオ兄弟の給料は「無給」だった。

「材料費とテナント料を差し引いても二人分の給料は出るはずだ!」と父親マサトを問い詰めれば、「お前たちの稼ぎは姉アヤコの芸大の学費に消えたからあきらめろ! 人生何事もあきらめが大事だぞ、タコ男ども!」と罪悪感など感じず、つっけんどんに言い放った。

じつはイケゾエガレ&ロミオ兄弟には二歳年上の姉アヤコがいた。

ときは氷河期世代、相変わらず給料が出ない。

日々たこ焼き屋のタコ男として悪戦苦闘する中、父親の惣菜店経営者仲間であるAさんという60代後半の元国鉄職員から「仕事を手伝ってくれないか」とのオファーがあった。

仕事内容は神戸に拠点をおくパ・リーグ球団の二軍に弁当を卸す仕事だ。

俗にいう「弁当の仕出し」だった。

お惣菜屋をずっとやり続けていてはイズミヤの出店の意味も含めて、いずれ「ジリ貧」になるだろうとの父親の予測もあり、父親はその仕事を快諾した。

しばらくの間、神戸の惣菜店FCの経営と掛け持ちだ。

イケゾエガレ&ロミオ兄弟もこのお弁当売りの仕事に従事することになり、スーパーマーケットでの店先での露店商をやめることになった。

この日からイケゾエガレ&ロミオ兄弟は「露天商出身の芸術家」から「仕出屋出身の芸術家」へとなった。同時にタコ男からコメ男となり、気持ち少しだけ人間の生活を取り戻しつつあった。

惣菜店FCを拠点とした仕出屋経営は1年ほど続いた。

しかしイケゾエガレ&ロミオ兄弟の給料はまだ捻出できなかった。

その矢先、Aさんは娘婿(大阪を中心とする運送業の中小企業経営者)の仕事を手伝うことになり、神戸から大阪に行きたいとの相談を持ちかけられ、父親マサトはAさんが担っていた仕出し弁当業務を譲り受けた。

Aさんが大阪に去って数カ月後、パ・リーグ球団の二軍の食事は経費上から外注には出さず球団内ですべて賄うことになり、外部委託は取りやめになった。

不運かどうかはさておき、結果的に父親マサトには弁当を売るノウハウと弁当仕出し業における若干の利益が残っただけだった。

その利益も当然ながらイケゾエガレ&ロミオ兄弟の給料として支払われることはなかった。

このときマサトは弁当を売るノウハウを有効活用し、弁当を神戸市のはずれにあるスーパーマーケットの店舗内で売るのではなく、格安でランチの一時間のみ瞬間的に販売するという弁当の移動販売を始めた。

それは父親が自分の頭で考えた初めてのビジネスであった。それは今でいうところの「フラッシュマーケティング(フラッシュセール)」と表現しても良かった。

男を大阪へと突き動かす原動力、それは悲しくも約30年前の記憶だ。

父親マサトの思惑は姫路や神戸ではなく、人の移動が激しい大阪の繁華街で弁当を売ることだった。

というのも父親マサトは若い頃、大阪の某百貨店の広告代理店で広告デザイナーとして働いていた経験があり、そのとき行列が多くて休憩時間内にランチが食べれずに困っていたそうだ。

経営者が年齢を重ねるように大阪の繁華街も年齢を重ねる。また、そこで働く人たちも当然のように年齢を重ねる。

確かにあの時代のままであれば、時代が止まっていれば父親マサトは「弁当売り」で成功していただろうが、年を重ねた経営者が陥る「大阪の繁華街ともに顧客も年齢を重ねる」という考えには至らず、経営感覚のアップデートがなされていなかった。

またビジネスは売れて成功ではない。売れて継続・持続してこそ初めて「成功した」と言える。

その「成功した」に辿りつくまでのプロセス、すなわち障壁が大なり小なり必ず存在する。この障壁を「落とし穴」と言い換えるのであれば、この穴を埋めて真っすぐの平らな道にするのが経営というものだ。

当然のようにマサトはそんな経営学の知識など一欠けらもない。

すべてが行き当たりばったりの男なのだ。

これが高知県土佐出身の「いごっそ」気質なのかもしれない。

結果的に大阪での弁当売りは、場所代から移動における時間的制限、売り残った弁当の処理などを含めた「落とし穴」を埋めることができず、一時的には成功したかのように見えたこのビジネスは「継続・持続」ができずに途中で挫折し、残念ながら不成功に終わった。

この頃、イケゾエガレと父親マサトに大きな動きがあった。

第二話
上場企業の創業者との出会いに続く
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