第二話:上場企業の創業者の出会い

イケゾエガレ&ロミオの再従兄弟(はとこ)に池添吉則という上場企業の創業者がいた。

彼は神戸大学を卒業後、住宅メーカーのミサワホームに入社し、同社の営業の頂点に昇り詰めた後、1999年9月に株式会社アイディーユー・ドットコムという不動産競売会社を創業して独立した。

今でいうところの敏腕経営者と言ってよい。

池添吉則は約1年後に事業拡大のために「株式会社アイディーユー」と社名変更し、同社の事業ブランド「マザーズオークション」を全国展開させる。

マザーズオークションとは「不動産オークション」のブランド名だ。

透明性・公平性・経済合理性が高い手法として認識される不動産オークションは、欧米では一般的な不動産の売買法として知られている。

だが保守的な日本の不動産業界では実施されておらず、1999年6月にようやく日本でも解禁となった。

そこにいち早く手を挙げたのが株式会社アイディーユーであり、同社代表取締役社長の池添吉則氏だ。

創業から4年後、株式会社アイディーユーは東証マザーズ(現:東証グロース)に現在はそうでもないが、当時では「最年少社長」の40歳という若さにて上場を果たした。

その後、経済的な紆余曲折があり、最終的に株式会社アイディーユーは何度かの社名変更を繰り返した。

実質的な事業破綻により、ディスカウントストア「ドン・キホーテ」を展開するパン・パシフィック・インターナショナルホールディングス(通称:PPIH)の子会社となった。

子会社化に伴い、祖業であった不採算事業である「不動産競売事業」から撤退し、不動産管理事業会社となる。

また同社による株式公開買付が成立し、東証マザーズを上場廃止となり、翌月には株式売渡請求によってPPIHの「完全子会社」として現在に至る。

イケゾエガレと池添吉則氏の出会いは、株式会社アイディーユーが東証マザーズに上場し、上場3年目の決算で年商500億円を達成した不動産オークション会社として飛ぶ鳥を落とす破竹の勢いがあった頃だ。

当時の株式会社アイディーユーは、大阪市北区のヒルトンウエストオフィスタワーの最上階に本店を置いていた。

思えば父親マサトに連れられて、氏に出会ったのはイケゾエガレが22歳のときだ。

イケゾエガレの父親は長い物には巻かれる精神の、誰かに依存する性格が強く、強い者に媚びる男だけあって、池添吉則に会った理由は「出資」を請うためだった。

イケゾエガレと初めて出会った池添吉則は開口一番で言った。

池添吉則
「君、誰かに似てるな」

イケゾエガレ
「・・・・・・」

池添吉則はガレに「君、誰かに似てるな」と言いつつも、机の上の手鏡を見ながら「自分に似ている、親戚だから当たり前か」と心の中で納得すると本題に入った。

父親の自分の事業への出資は断りつつ、「連帯保証人」であれば問題ないことを伝えると更に「ただし1点条件があります」と声を荒げてガレの方を見ながら「二人の息子さんをおじさんの束縛から解放することが私が保証人になる前提です」と条件を提示した。

池添吉則自身、父方の祖母と継母との確執に苦しみながら人の数倍の苦労を重ねてきた人生を歩んできた。

だからこそ目の前の置かれた人の苦しみが分かるのだろう。

その言葉に初めて男の人間性を感じ、言葉にならない何かがイケゾエガレの胸に迫ってきた。

また目の前の経営者は名もなき青年に対して「君は話をしたところ経済感覚が鋭い、君さえよければ私のところで経済を勉強してみないか?」と優しい声をかけてくれた。

それはイケゾエガレに自分の若い頃の面影を重ねた池添吉則の慈悲ともいうべき救いの手であった。

イケゾエガレは即答を控えざるえなかった。理由は簡単だった。確かに毒親から離れるにはきっかけがいる。

目の前の敏腕経営者がそのきっかけをわざわざ与えてくれているわけだが、何事も深い思慮なしでは失敗する。とりわけ準備というものが必要不可欠だ。毒親から離れるにはそこそこの資金が必要なのだ。

イケゾエガレにはそれがなかった。当然だ、今まで無給で働かされてきたのだから。

池添吉則氏のところで経済を勉強したくても勉強できない「言い訳(今思えばただ単に「できない理由」を探していたのだろう)」がそこにはあった。

父親マサトといえば自分の要望が叶えられたという満足感はあるものの、久しぶりに出会った親戚の経済的変わりようを目の当たりにし、働き蟻のような自分の人生を比較して惨めになっていた。

その日、二人は思うことがたくさんありすぎて大阪から姫路までの帰路2時間、一切会話を交わすことなく帰宅した。

ともあれ池添吉則との出会いは、二人にとって大きな転換点となったことはいうまでもない。

毒親とイケゾエガレのこうした行動とは関係なく、この地獄のような状況から脱却するため「画家」を目指していたイケゾエロミオといえば、寸暇を惜んで描いた肉筆複製画のネット通販に力を入れていた。

ロミオなりに「インターネットは時代の必ずインフラとなる。電気水道と同じく必要不可なものになるはずだ」とEコマースの将来に商機をみていたのだ。

事実、彼が丹精込めたモディリアーニの肉筆複製画が約10万円で売れたのだ。

顔も知らなければ、言葉さえも交わしたことのない東京の人が自分たちを信用して肉筆画を買ってくれたのだ。

芸術家としての活動歴が少ないイケゾエガレ&ロミオ兄弟は、ネット通販(Eコマース)に芸術家としての生活の活路を見出した瞬間だった。

そこで兄弟は、すでにジリ貧になっていた惣菜店FCを経営する父親マサトに「弁当業における利益を有効活用して、今すぐにネットビジネスに参入すべきだ」と提案した。

そのことをイケゾエガレは父親マサトの代わりに池添吉則本人に伝えるところ、彼は「まったく経験のない事業に対し、私は保証人になるほどお人よしではありません! 今回の話はなかったことにしてもらいます」と怒りの声をあげた。

今でこそ経営者の末席にその名を連ねるイケゾエガレ&ロミオは彼の言い分が痛いほどわかる。

だがイケゾエガレは気まぐれに電話したわけではない。

池添吉則は「上場企業社長の自分が連帯保証人になれば、銀行は絶対に数千万円は融資してくれるでしょう」と父親に言ったことをイケゾエガレは覚えていた。

そこで飲食店開店のための事業計画書を意気揚々と携えて、大手都市銀行に融資依頼の商談の場を設けてもらったところ、融資担当者は「池添吉則氏が連帯保証人であっても融資は不可能です」と伝えられたのだ。

イケゾエガレ本人に対して信用情報の欠落があったわけでもない。

どうしても合点がいかないイケゾエガレは「池添吉則氏に電話して確認してほしい」と銀行の融資担当者に哀願した。

融資担当者は「株式会社アイディーユーの事業計画に問題があって、将来性を考慮しても継続性に疑問を生じる。融資返済は15年間です。残念ながら返済期間の15年間、大変申しにくいことですが株式会社アイディーユーの事業が当行では継続しないと考えています」と静かに眼鏡を光らせた。

さらに融資担当者は「そのような上場企業の代表者が本事業の連帯保証人になられても当行としては貸し倒れリスクの解消にはならないので、できれば公務員の方を連帯保証人にしてほしい」との返答だった。

銀行の融資担当者の話をイケゾエガレは池添吉則本人に伝えることはしなかった。

このような経緯からイケゾエガレ&ロミオ兄弟は、失敗すれば大きな借金を背負うことになる「飲食業」への連帯保証人よりも「Eコマース」への連帯保証人のほうが仮に失敗したとしても、お互いに「リスクがない(返済できる金額)ため、銀行の融資担当者も考え直してくれるだろう」と踏んだうえでの提案だった。

これは後日譚になるが、悪名高いリーマンショックにより、株式会社アイディーユーの年商は数千万円にまで落ち込んだ。年商数千万円、それが意味するところは「東証マザーズの上場廃止基準(売上高1億円以下)」に抵触するということだ。

何としても上場廃止を防止するために株式会社アイディーユーは、当時の代表取締役社長であった池添吉則指示のもと、事業の粉飾決算を投資家たちに公表した。

しかし前会計事務所(決算書を作成できないため会計監査を前年に辞任)が「現会計事務所は経営陣の言いなりによる粉飾決済を黙認している」と内部告発した。

粉飾決算における不正の愚行は、瞬時にマザーズ市場に広がり、多くの投資家たちの支持を失った。

結果的に事業破綻を経験するまでになったことから「銀行融資担当者の融資見解は正しかった」と言える。

さて話を元にもどすが、言わずと知れようが池添吉則氏からの事業への連帯保証人の話はなくなり、イケゾエガレ&ロミオ兄弟は自前で資金調達しなければならなかった。

相変わらず守銭奴マサトは「お前のせいでこうなったんだ! すべてお前の責任じゃ!」と声を荒げた。

日頃の鬱憤を晴らすかのように「責任をとれ! イズミヤの出店もお前のせいじゃ!」とイケゾエガレを責めるが、負け犬の遠吠えに耳を傾けるほどイケゾエガレ&ロミオは暇ではない。

「イズミヤの出店もお前のせいじゃ!」の何でもかんでも他人の責任にする父親の言葉で思い出したが、この数カ月前にイズミヤのショッピングモールは地域への大々的な開店セレモニーを行った。

その結果、資本力と知名度、価格戦略に劣ることは明らかとはいえ、父親マサトがテナントに入店するスーパーマーケットの全体売上は半分以下に落ちていた。落ちるどころか回復の見込みさえままならない。

一般の小さな客船がどう足掻いても巨大空母には勝てないように、小資本事業者が大資本事業者に勝てるはずもない。

これが意味するところはテナント事業者の破産である。

だからこそ兄弟は寝る間を惜しんでネット通販の研究に研究を重ねた。

その結果、見出したのが「中古ブランド品FCの販売業」だ。事業資金は兄弟が寝る間を惜しんで稼いだお金、そしてイケゾエガレ本人による数百万円の少額融資によって何とか調達できた。

数カ月後、リユース会社とFC契約し、イケゾエガレ&ロミオ兄弟は新事業に邁進する。

そしてこの日から兄弟は仕出屋出身の芸術家」から「古物商出身の芸術家」となり、コメ男からブランド男となった。

父親マサトは相変わらずだった。
「ブランド男ども! 儲けはすべて折半だぞ! お前たちのせいで吉則からの保証人がなくなったんだからな!」

これが新事業を邁進するイケゾエガレ&ロミオ兄弟に対する父からの門出の言葉だ。

とはいえ、そっと耳を澄ませば人間らしい生活音が聞こえる手前まできていた。

思えば私たちイケゾエガレ&ロミオ兄弟が「ブランド男」になったのは、すなわち中古ブランドのセレクトショップの経営に乗り出したは2005年頃だったと思う。

父親が経営する神戸市の惣菜屋FCの仕事に専従しても「無給労働」になることから、私たちイケゾエガレ&ロミオは中古ブランド品の売買業務を自ら行うことにし、家業を食品事業とブランド品事業の二事業部に分けた。

営業場所は姫路駅前の商業テナントビルだ。

このときイケゾエガレ&ロミオ兄弟は24歳になっていた。

兄弟の最初の仕事は、ハイブランドといわれる高級ブランド品の名前と歴史を知ることから始まった。

HERMES(エルメス)をヘルメスと言い間違えたり、GUCCI(グッチ)をゴッチと言い間違えたり、最初は文字どおりブランドとは所縁のない素人同然だった。

そんな最中だった。

父親マサトが神戸市の惣菜屋FCを辞めて、イケゾエガレ&ロミオ兄弟の仕事をいきなり手伝いたいと言い出した。

実際のところ「手伝いたい」とは方便であって、事の真実は「イズミヤに勝てず、惣菜屋FCを事業精算した。だからお前たちの事業の利益から実家に生活費をいれろ!」とのことだった。

一般世間でいうところ「毒親」、もしくはクズ親とはこのことなんだろう。

とはいえ幸いなことに大きな借金は残ることなく、この毒親が事業を清算できたことは幸いの至りである。

毒親マサトの言い分はこうだ。
「今まで育ててきてやった恩があるだろうが! お前たちの利益の分け前をわしによこせ! このブランド男ども!」

イケゾエガレ&ロミオ兄弟にとって、多少なりにもそれは予見できた。

兄弟が思い描いていたのは父親が就職できたとしても今まで父親の稼ぎより低いに違いない。その足りない給料分を自分たちがおそらく補填することになるだろうと思っていたからだ。

ただ父親が働かずに自分たちの依存することが「青天の霹靂」ではあった。

一家の経済が今度は兄弟の双肩にのしかかってくる事になった。

さらに体裁を整えた父親の言い分は「自分が稼いだ金でお前たちは商売をしている。わしは出資者としてその利益を得る権利がある」とどこで勉強してきたのか分からない、おそらくはWebから仕入れてきた二束三文の知識をひけらかして出資者気取りという質の悪さだ。

この男は出資者としてイケゾエガレ&ロミオ兄弟に利益配分を求めてきたわけだ。

もちろんそんな滅茶苦茶なロジックが通るのは、文字どおり「従業員に給料をきちんと支払っていることが前提」なのだが、父親マサトにはそれが一切ない。むしろそんなロジックは知らぬ存ぜぬで自分の主張だけを突き通す自己中心的な男がイケゾエガレ&ロミオ兄弟の父親マサトなのだ。

毒親マサトは社会では一切通用しない男だが、家庭では自分の主張が世の道理と思っている勘違い野郎なのだ。

「これは惣菜屋FCとまったく同じじゃないか、冗談じゃないぞ!」とイケゾエガレ&ロミオ兄弟は怒りが沸々と湧いたが、家族の絆をさすがに無視することもできず、その要望を渋々受け入れた。

毒親マサトの毒っぷりはさらに毒気を増す。
「ブランド男ども! お前らを見習ってわしも新しい商売をすることにした。そこでわしに出資しろ。もちろん利益のすべてはわしのもんだ。お前らからの出資は寄附として受け取るから返金もせん」

自分の人生と責任を他人に押し付ける、これが毒親マサトのロジックだ。毒親はどこまでいっても毒親であり、対処のしようがない事実にイケゾエガレ&ロミオ兄弟は唇を嚙みしめた。

父親マサトの新しい商売、それはセレクトショップの空きスペースを有効活用し、私設私書箱業務のFCに参入し、姫路駅前にて私書箱業務を営むことだった。

この私書箱業務は「住所を知らせたくない顧客に対し、住所を貸しだす代わりに契約料として利益を得る業務」だが、この事業がイケゾエ家にのちに大きな災いをもたらすことになるとは、このとき一体誰が想像しただろうか。

このままでは惣菜FC店の時の待遇と同じ二の舞になることを避けるため、そこで兄ガレはネットで知り得たある知人を頼りにして、ブランド品以外の売れ筋商品の発掘仕入のために中国深圳・香港に行くことにした。

なぜ中国深圳・香港なのか。

当時の中華人民共和国は共産主義国とはいえ、専制主義ではなく集団体制による政治であった。さらに政治的な規制はあるが、比較的自由にビジネスが展開できる環境にあったことから、中国深圳・香港は当時世界で一番「投資マネー」が流れていた中華人民共和国の経済都市圏(経済特区)だったからだ。

今でこそ中国は米国に次ぐ「世界第二の経済大国」ではあるが、活きた経済を学ぶためには「世界で一番投資マネーが流れている中国で経済を肌をもって感じるべきだ」というのが、イケゾエガレが中国に遊学した最大の理由だ。

こうしてセレクトショップの経営はイケゾエロミオの双肩にかかることになった。

毒親マサトは自分の小遣い程度しかならない私書箱業務を「立派なビジネス」と呼び、それ以外のことは一切しない。繁多になってきたイケゾエロミオの仕事を手伝うのかといえばそうでもなく、月末に「利益の半分をさっさと振り込め!」と偉そうに言ってくる相変わらずのクズっぷりだ。

セレクトショップでの業務内容は、来店者からブランド品の買取り、もしくは修理し(ときには仲間卸で仕入れ)、個人事業主として出店した楽天市場などのECモールで販売することだ。極めて単純にして簡単な内容だった。

イケゾエロミオはセレクトショップの経営に従事することにより、仕入れから販売、事業の成長のため目標達成方法(PDCA)など経営の鉄則を否応なく学ぶことになる。

イケゾエガレが中国深圳・香港に足跡を残すこと数カ月。

活きた経済学を学ぶため、中国深圳と香港に遊学したガレが「仕入れ」で苦闘している事を知っていたロミオは、ガレの商材に依存せず儲かる商材として「宝石」を販売することを計画していた。

思案に思案を重ね、「有言実行」をモットーとしていたイケゾエロミオは、数カ月後にセレクトショップ経営の傍ら大阪の某宝石学校に通学し、宝石のイロハを学ぶことになった。

このときイケゾエガレ&ロミオは「ブランド男」から「宝石男」へと人生を変わりつつあった。自分の人生を変えるのは他人ではなく、自分自身の日々の努力であることを毒親の背中から学び、兄弟は痛いほど身に染みてよくわかっている。

その努力も残念ながら、半年後にある事件をきっかけに学費が払えずに自主退学をすることになる。

一方、イケゾエガレは現地の人間(共産党の末席)と日本人業者との間での取引に巻き込まれ、結果的に「産業スパイ」との嫌疑がかけられ、深圳の郊外にて「軟禁状態に近い状態」にあった。

このことに関しては別件になるため、機会があれば内容を紹介したいと思う。

第三話
偽物ブランドに騙された日々に続く
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