
デザイナー紹介
まず読者の諸君にこの宝石総合メディアである「イケゾエ宝飾家」を主宰している、私たちイケゾエガレ&ロミオ兄弟について、簡単だが自己紹介をさせてもらいたい。

イケゾエガレ&ロミオは社会不適合者アスペルガーなのか?
あれは確か数十年も昔になるが、今思えばアスペルガーゆえの突飛な行動だったと思う。私たちイケゾエガレ&ロミオ兄弟は、中学時代は休みがちの登校拒否をする多感な少年だった。
また苦労の末に進学した公立高校にも馴染めず留年を経験したほどだ。
今で言うところの『 ダメダメな草食系男子 』といったところだろう。
いわゆるダサい男子で、はっきり言って『イケていない男子(細かく言えばイケていない男子だが腐ってはいない男子)』だったと思う。

過去を述懐すれば、ガレは不良少年であり、ロミオはいじめられっ子だった。
よく二人を知る知人友人からは、小説『宝島』で知られる英国作家ロバート・スティーブンソンが執筆した小説『ジキル博士とハイド氏』に例えられたものだ。
二人は高校一年時の時、授業の無意味さから不登校となり、昼間から姫路市の公営図書館に入り浸っていた。まさにそれは二人が知るうえで膨大な知識の宝庫だった。
学校でつまらない勉強に時間を浪費するよりも、自分たちの興味のあることに限られた青春の時間を費やすことのほうが二人にとって有意義に思えたのだ。

そもそもイケゾエガレ&ロミオ兄弟には、愚かにも広大なるロマンといえる『自由業(フリーランス)』への憧憬があった。
何よりも自由を愛し、自由に忠誠を誓い、お金よりも自由のために生きることを選択する青年だった。社会にでていない未成年とはいえ、それは学歴社会・門閥社会の日本において明らかに愚かなことであった。


というのも二人は、幼少の頃から母の知り合いでもあった地元姫路在住の老画家に絵の手ほどきを受けており、兄弟の未来設計において画家で生計を立てる、つまり『自由業』で生計を立てるというのも選択肢の一つだった。
またイケゾエガレ&ロミオ兄弟が師事していた老画家は、身体にハンディキャップをもつ画家であった。
画伯は生まれながらの身体障害(記憶が定かであれば小児麻痺だったと思う)などにも決して負けず、むしろ障害を乗り越えて、独立美術協会に属する正会員画家として、健常者さながら『一人前の画家』として、地域で絵画を教えながら受講料を得て生計を立てていたほどだ。
今思えば老画伯は素晴らしい人生の挑戦者であり、偉大な無名な画家であったと思う。

その偉大なる老画伯は私たち兄弟に「キミたちには類まれな芸術の才能がある。その自由な発想力とインスピレーションに敬意を表したい。僕はキミたちが将来『芸術家』になることを心から切望する。どうかその才能を惜しみなく世の中にみごとに咲かせてほしい」と激励の意味も込めて、未来の設計図を偉大な無名な大芸術家から受け取ったことは今でも忘れ難い。
イケゾエガレ&ロミオ兄弟はその言葉を純粋に受け止め、その日から芸術家の道を無意識に志向し始める。

さて高校に行くことを昼間からさぼり、市内の図書館で古今東西の知識に触れていた無名にして愚かなイケゾエガレ&ロミオ兄弟は、同級生が勉強と運動に勤しむ中、先人たちの記憶集合体である知の殿堂から様々なインスピレーションを得ていた。
それは学校では決して学べない『かたちのない何か』だった。
その経験が現在の私たちを形作る要因になったことは間違いない。

兄弟の忘れ得ぬ知識として、書物の中で深く学んだ『アール・ヌーボー』という芸術概念は、今思えばイケゾエガレ&ロミオ兄弟の『美意識』を大きく形作り、現在のジュエリー芸術活動の土台及び礎になっていることは否めない事実だと思う。
ピラミッドは決して頂上から作れないように、優れた美術や芸術には『記憶として何世代もの優れた知識の継承、経験が必要不可欠』といえる。それなくして人を感動させることなど土台無理な話だ。
約1世紀前とはいえ、アール・ヌーボーと呼ばれる美術運動の先駆者であったエミール・ガレというフランスの美術工芸家の作品に興味を抱くことに始まり、モネやゴッホという印象派の巨匠に何かしらの衝撃、いや芸術全般に関するインパクトを受けたことは今でも忘れることはない。


しかし知識の殿堂で自由に学ぶ半面、現実は甘くはなかった。
現実は砂糖というより唐辛子といってもよく、受け入れざる負えない過酷な現実、否、辛い現実が兄弟に待ち構えていた。そう留年である。それは一つと年下の同級生を同じ学び舎で学ぶことになるわけだ。
青春時代の1年というものは、女性の1年同様に10年に匹敵する価値があるといわれるように、心を病んでいたイケゾエガレには年下とともに学ぶことにどうしても抵抗があった。
短期、否、喧嘩っ早いガレは愚かにも下級生との挑発に乗り、些細なことで喧嘩をして進学コースの高等学校を『退学処分』となる。
簡単にいえば「下級生による上級生への留年いじめ」というものであったが、もはや過ぎ去った過去のことであり、当事者がどのような意図でガレをいじめていたのかは分からない。
ガレ自身も触れたくもなければ、思い出したくもないとのことから詳細は記載しない。
ただ残されたロミオは、双子ゆえに居ずらくなり通信制の高校に転校することになった。

イケゾエロミオはその時、海外で絵を描く仕事をしたくなり、英会話教室にも通っていた。
転校理由は外国に行くための資金稼ぎだった。
今思えばイケゾエロミオにとって留学の本気度数は50%、残りの50%は「日本の高等教育の息苦しさからの逃避だった」と思う。
通信制に移行後は、ロミオの留学志向は徐々に薄らいでいった。
自分のペースで勉強ができる通信制の高等教育は、イケゾエロミオにとって非常に相性の良いものだった。
通信制高校を卒業するまでの間、彼は偉大なる老画伯のアトリエに通いながら芸術活動と勉強の両立に励んだ。やがて退学に追い込まれた兄ガレもロミオのすすめにより通信制教育に通い、遠回りになったものの二人とも無事に通信制高校を卒業する。

通信制高校に通う傍ら、兄のイケゾエガレは詩人を目指していたこともあって、語彙力を磨くため様々な小説を読んでいた。
そのなかで「これは面白い! このファンタジー小説は必ずベストセラーになるから読んだ方が良い!」とある魔法使いの小説、英国のシングルマザーが書いたファンタジー小説を弟のロミオに薦めた。
イケゾエガレ&ロミオのジュエリー作品は、多くのファンの方から「ファンタジー要素を感じる」とお褒めの言葉をありがたくも頂戴するのだが、それは通信制高校に通う傍ら、夢中で読みふけった英国を舞台とするファンタジー小説「ハリー・ポッター」シリーズの影響が少なからずあるのかもしれない。

第一話
神戸での無給労働の日々に続く..。
