第四話:ジュエリーの神々の助け

イケゾエロミオは考えに考え抜いた判断のもと、セレクトショップのリアル店舗(山陽姫路駅前店)を閉店させ、ネット通販に特化した店舗運営、厳密には事業経営に切り替えた。

業務地は姫路市南部の飾磨区という港町の小さなマンションの一室だ。

現在の姫路市は平成の大合併等を経て、兵庫県下で一番の面積を誇る中核都市になったものの、旧自治体の風土というものは各区によって色濃く残る。イケゾエガレ&ロミオが事業部の移転先とした飾磨区もその一つだ。

飾磨区が姫路市の一部になったのは平成の大合併以前だ。それは第二次世界大戦終結の1年後まで遡る。第二次世界大戦によって弱体化した国土強靭化政策「戦後政策」の一環により、1946年に姫路市と合併するまで飾磨区は「飾磨市」という自治体であった。

その経緯から飾磨区は姫路市と雰囲気が違って、「チャンスさえあれば成り上がる」という風土がある。その観点からイケゾエロミオは気持ちを一新するため、事業地を飾磨区にしたのだ。

気持ちを新たにするため、イケゾエロミオはジュエリー事業部を「イケゾエハンセン(吹き荒れる嵐の中、港町に停泊する帆船という意味)」と命名した。

そしてネット通販での主たる取扱商材は、ルイ・ヴィトンやエルメスなどの中古ブランド品ではなく「ノーブランドの新品ジュエリー商品」とした。その理由は第三者鑑別機関により「真贋確認」ができ、改造品等の「偽物」を排除できる商材だからだ。

商標権違反の件からイケゾエロミオは真贋に関しては誰よりも神経をとがらせるようになっていた。

「中古ブランド」から「新品ジュエリー」へと商材を大きく切り替える旨を中国深圳市にいるイケゾエガレに相談したところ、ガレの知人にアコヤ真珠を取り扱う専門業者がいることを教えられ、ロミオは中国製のアコヤ真珠を大量に仕入れることにした。

まずWeb販売に踏み切る前に商品の品質を確認するため、ロミオはガレからアコヤ真珠を取り寄せ、念入りに現物確認をした。当然のように鑑別機関にて商品鑑別を依頼、鑑別機関の鑑別内容は「養殖アコヤ真珠」のネックレスで間違いない上物であった。

その上で大手ECサイトの年末広告商品として「アコヤ真珠ネックレス販売企画」の販売企画枠を確定させた。

イケゾエロミオは売れ残りのリスクも考え、兄ガレにアコヤ真珠ネックレスの撮影を依頼して「商品写真をWeb掲載、販売に至れば日本に発送してもらう」という仕組みも考えたが、無在庫販売の現地発送は「信用」を落としかねないことから、まずは現物確保の観点からアコヤ真珠ネックレスの大量仕入に踏み切った。

この販売企画はクリスマスの特別セールと銘打ち「花珠範疇のアコヤ真珠ネックレス」ということもあって、大手ECサイトの既存顧客から数百個という大量の予約注文を受注することに成功した。

まさに今までの苦労が報われた瞬間だった。

あとは予約受注分の花珠範疇のアコヤ真珠ネックレスが「イケゾエハンセン」に届き次第、発送作業に移行すれば問題ない段取りだった。しかし問屋が卸さない、そこにビジネス上の大きな落とし穴があった。

アコヤ真珠の品質(グレード)が悪かったのだ。おおまかにいえば「良品8割、粗悪品2割」という具合だ。粗悪品2割といえば、日本の「品質管理(品管)」の常識では一切通用しない。

日本企業の品管常識でいえば、不良率0.50%以上あれば改善しなければならない。今回は不良品率20%だ。企業として考えるならば本来は現地会社を作り、現地会社のスタッフによる検品を行う必要があったが、当時のイケゾエガレにはそのような知識もなければ余裕資金もない。もちろん人を雇用する余裕もなかった。

その結果、「イケゾエハンセン」の評判は悪くなり、店舗としての「信用」がガタ落ちになった。個人自営業の限界ともいえるわけだが、当然といえば当然の結果ともいえる。

一方、イケゾエロミオは大阪の宝石学校でのジュエリー知識はあったものの、この時まで天然石(養殖真珠を含む)を使用した「本物」のジュエリーというものに恥ずかしながら一切触れたことがなかった。

今までのロミオは「机上の宝石商」であったといっても過言ではない。

今回の件はイケゾエガレ&ロミオ兄弟の「独学による準備不足と知識不足による人為的ミス」であったが、雨降って地固まるといっても良く、大いなる収穫、いや実りある収穫も確かにあった。というのも「花珠範疇のアコヤ真珠ネックレス」の予約受注数から鑑み、「ジュエリー需要の底堅さ」をお客様から教えてもらったからだ。

確かにそれは店舗の評判が多少傷つくという「痛み」を伴うマーケティングではあったものの、返金の顧客分のマイナス金額を補うほどの大きな黒字を叩きだした。そしてロミオはこのとき「どんな状況下にあっても利益を生む宝石の売り方」というものを否応なしに体得した。

これが私たちイケゾエガレ&ロミオが得意とする売り方(ロングテール×エクスチェンジ)だ。詳細は控えるがこの販売方法が正しいかどうかを検証するため、ロミオは信用が落ちたネット店舗を閉じ、新しいネット店舗を一から作り直した。

新店舗の名称は「宝石商イケゾエガレ」、これがのちの登録商標「イケゾエガレ&ロミオ」の起源となる。

名の由来はアール・ヌーボーの先駆者エミール・ガレから拝借したものであり、兄ガレのデザイナーネームでもある。このときイケゾエガレは「宝飾デザイナー・イケゾエガレ」としてはまだ正式に活躍しておらず、弟ロミオによって「己の生きる道」を強制的に定められたといってもよい。

一方で深圳にいたイケゾエガレにも大きな動きがあった。

言葉が分からない中で、彼は様々な人脈を駆使して新規路線を開拓していた。

中国のある年商数兆円の有名投資ファンド(投資会社は香港市に拠点を置き、事業会社は深圳市に拠点を置いている)がスペインの有名ブランドのライセンスを期間限定で取得しており、その商品を販売できる権利を得たのである。

中国はご存じのとおり当時も現在も「コピーブランド」の天国である。

かつてあるスイスの高級腕時計メーカーが広東省広州市に製造拠点を設けたが、「モデル型番」が幅広く市場に流通し、模造品が大量に製造されたことでそのブランド価値が大きく下がったことがあった。そのことから欧米の高級ブランドは中国に製造拠点を置く場合、有力企業に製造ライセンスを発行することでブランド価値を守る戦略に方針転換した。

その恩恵にあやかったのが兄ガレだ。

彼は「三陽商会」が英国紳士服ブランドの「Burberry(バーバリー)」の日本総代理店のライセンスを取得し、国内販路を広げていたことを思い出した。三陽商会と同じようにガレは広州市に拠点を置くライセンシー会社に「日本向けデザイン」を無償提供し、日本国内用にデザインされた中国ライセンシー製品を並行輸入して日本国内で販売する方法を提案したのだ。ライセンシー会社も総代理店契約を慎重に確認後、法的に問題ないことから快諾した。

一カ月後、ガレは香港から日本にそのブランド商品を並行輸入するための貿易会社を興した。

販路拡大のため、ガレはスペインのライセンシーブランドを日本に販売するためのサイトを制作した。そして数カ月後にある程度の販路を構築後、WebサイトのM&A仲介サイトを通じて、東京の不動産会社勤務のある人物と出会った。

それは木枯らしが寒い季節だった。

2008年1月、兄ガレは香港及び深圳市に拠点にし、日本向けにライセンスブランドを独占的に並行輸出するため、専用サイトの運営を東京の不動産会社に譲り渡すため、東京の恵比寿ガーデンタワーの前に立っていた。

兄ガレにとって久しぶりの帰国は故郷「姫路」ではなく、東京都だった。

恵比寿ガーデンプレイスタワーを本拠地とする不動産会社に勤務するS氏。彼が勤務する不動産会社は米国の投資銀行リーマン・ブラザーズ・ホールディングスが直接出資する外資系不動産会社で知られる。

そこでS氏は投資銀行リーマン・ブラザーズ・ホールディングスから出資を受ける子会社として、この「ライセンスビジネス」を兄ガレと協業することになった。具体的には小売販売は不動産会社出資の子会社が行い、デザイン(製造買付)及び輸出はガレの現地会社が担当することで合意した。

契約に基づいてイケゾエガレは、自分がデザインした日本国向けライセンス商品を含め、多くの既存デザインのライセンス商品を仕入れた。深圳と香港の事務所はその製品がいたるところあふれ、従業員が歩けないほどに積まれていた。

ある日、けたたましい電話の音が事務所中に鳴り響いた。
「○○不動産のSです、イケゾエガレさんですか? 販売網は問題なく完成したので商品を送って下さい!」

S氏の言葉を信じ、ガレは現地法人の佐川急便を通して、500万円相当の商品を送った。

その矢先だった。

ライセンス保有の広州市に拠点を置く企業からガレに一報が入った。

それは悲報といっても良く、その内容は香港とスペインブランドメーカーとの両者間契約において「ライセンス料の問題から自動更新は行わない」とのことだった。

一般的にライセンス契約期間は5年間ごとの自動更新だ。残りの1年を残して相手は「中国全土におけるブランディングの関係から更新は行わない」と通達してきた。その真意は分からないものの、通常は製造販売の観点から1年前というよりも更新後に通達するものだが、突然のスペイン本国からの一方的な通達により中国総代理店を有する企業は混乱に陥った。

それは今となって思うことだが、あの英国紳士服ブランド「Burberry(バーバリー)」が三陽商会から日本国内総代理店ライセンスの更新を行わないと一方的に通達してきた、それと重なるものがあった。

後日談ではあるが、スペインの有名ブランドメーカーが中国へのライセンス供与を強制的に終了したのには理由があった。というのもイタリアのGUCCIグループの子会社であった同ブランドは、GUCCIグループを買収した流通会社PPR(元ピノー・プランタン・ルドゥート)の意向により組織編制される予定だったからだ。

その後、スペインの有名ブランドメーカーは「ケリング」と名称変更したPPRの子会社となり、現在は元親会社であったGUCCIと同列の位置づけとなり、GUCCI同様に高級路線にて世界展開をしている。要約すれば親会社GUCCIグループは「ケリング」への子会社化を円滑に進めるため、グループ子会社であったスペインの有名ブランドのブランド価値を下げる要因の一つである「ライセンス供与を強制的に終了しなければならなかった」というわけだ。

ライセンシー事業に期限があることを東京のS氏に伝えると、彼からの連絡の一切が途絶えた。当然のようにガレがS氏に送った500万円相当のライセンス商品の返品の連絡は一切ない。これが意味するところはライセンシービジネスのとん挫であり、商品の持ち逃げだった。

まさにビジネスがうまく運んでいたかのように思えていた矢先のビジネスパートナーの「裏切り」である。しかし「不幸」というものは突然やってきて動揺をさせるからこそ不幸と呼ばれるが、動揺がなければそれはそもそもそれを不幸とは呼ばない。ただ単に「解決すべき自分自身の問題」として捉えることができる。

思い返せばイケゾエガレ&ロミオ兄弟には、およそ想像できない数多くの出来事がこの数年間に降りかかってきた。そしてその度に兄弟ともに一致団結し、苦しみながら目の前の諸問題をすべて解決してきたからこそ「今回もまた乗り越えることはできる、今度はどんな学びになるんだろう」と思った。

この「諸問題を乗り越える力(通称:レジリエンス)」こそ、ビジネス成功に必須能力なのだが、S氏率いるビジネスパートナーにはそれがまったくなかった。本来、一緒にこの困難をともに乗り越えていく姿こそ仲間というものなのだが、残念ながらS氏はそうではなく、いわゆる「仲間のふりをした裏切り者」だった。

S氏率いるビジネスパートナーの裏切りに関し、イケゾエガレは「5,000万円じゃなくて『500万円』で済んでよかった。5,000万円だったら再起不能だった」と心から安堵した。

それから数カ月後、あの悪名高いリーマン・ブラザーズ・ホールディングスが考案したサブプライムローンを発端とする「リーマンショック」が米国で起きた。

米国の名だたる銀行や証券会社、不動産会社も次々と倒産し、その波及は日本にも及んだ。

それは怒涛のうねりとなり、全世界に衝撃が奔った。

リーマン・ブラザーズの破綻劇は負債総額約6000億ドル(約64兆円)と巨額な信用債務であり、これが世界連鎖的に「信用収縮」を生み出し、結果的に人々の疑心暗鬼を増幅させ、世界金融危機を発生させたほどだ。歴史を紐解けば、リーマンショックは世界恐慌に次ぐ大不況と不幸を世界に巻き起こした。

アメリカ合衆国建国史上、最大にして最悪な企業倒産であった。

イケゾエガレがパートナーシップを締結していた東京の不動産会社も例外ではなかった。

リーマン・ブラザーズ・ホールディングスが出資を瞬時に引き上げた結果、階段から転げ降りたかのように東京の恵比寿ガーデンタワーを拠点とする不動産会社は数カ月後に倒産した。親会社が倒産すれば当然のようにS氏が代表取締役社長を務めるスペインのライセンスブランド販売会社も倒産、いわゆる親子連鎖倒産した。

奇しくもその遠因はイケゾエガレを欺いた不動産会社に出資していた、投資銀行のリーマン・ブラザーズ・ホールディングスだ。今にして思えば某社はイケゾエガレ&ロミオ兄弟を欺いた不動産会社に直接出資するだけでなく、経営顧問の関係から今回の事件を主導していた立場といえる。

リーマン・ブラザーズはイケゾエガレ&ロミオ兄弟を欺いた結果、約64兆円もの巨額な信用債務が明るみとなり、世界連鎖的に「信用収縮」を生み出し、世界金融危機を発生させたのだ。第三者観点からみれば、イケゾエガレ&ロミオ兄弟のみならず、リーマン・ブラザーズは自分たちの顧客に対して欺いてきた姿勢がリーマンショックを生みだしたというのが本質だろう。

要約すれば、イケゾエガレ&ロミオ兄弟への「悪意」ある損失こそ、投資銀行リーマン・ブラザーズの息の根を止め、強いては世界恐慌並みの「リーマンショック」という世界金融危機を発生させたわけだ。まさにそれはイケゾエガレ&ロミオ兄弟を陥れたリーマン・ブラザーズへの天罰もしくは仏罰であった。

幸か不幸かはさておき、話は本題から多少ずれるがイケゾエガレ&ロミオ兄弟に悪意をもって接すれば、必ず不幸なことが起こると彼らを取り巻いている仲間内でも話題になった。

これもまた後日譚ではあるが、サブプライムローン問題を抱えていたことを某社から聞いていた某不動産会社は出資元からの至上命令として、サブプライムローン問題がいずれ数年後に表沙汰になる前に「事業の受け皿となる新事業」を血眼になって探しており、そこで白羽の矢がたったのがイケゾエガレの事業であった「スペインの有名ブランドライセンス事業」であった。

そこでS氏を実行部隊としてイケゾエガレに接触させたのだった。

ガレは運命の皮肉を感じると同時に「人生には無意味なことは起こらないものだ」と思った。そして今回のことで学び得たことは「悪意は必ず自分に跳ね返り、結果的に身の破綻を招く」「努力は報われないときがあるかもしれないが、それでも努力をしないと成功はない」ということだった。

今回の事業不成功による大いなる教訓は、リーマンショックという外的要因はもとより、何よりも自分の詰めの甘さ、すなわち「社会経験不足」が事業不成功の原因であると結論付けた。

米国大手格の投資銀行リーマン・ブラザーズ・ホールディングス直接出資の不動産会社及び子会社により、ガレは500万円分の損失を被ったものの、仮に彼らとの協業(並行輸入ビジネス)が軌道に乗っていれば、損失は計り知れないものになっていたことだろう。

というのもガレとS氏、そして不動産会社社長の立ち会いのもとで締結された三者合意書には、「並行輸入ビジネスが安定軌道後、其々が役員就任と株の持ち合い等が約定されていた」からこそ、深く関わっていればイケゾエガレが経営する並行輸輸出入の貿易会社も責任を追わされて連鎖倒産していた可能性が否めないからだ。

ガレは深圳の摩天楼を一人眺めながら静かに思った。
「あのときの損失が5,000万円じゃなくて『500万円』で済んでよかった。5,000万円だったら再起不能だった」

空を見上げれば、木枯らしの季節は春風心地よい季節を迎えようとしていた。

2008年3月、元ビジネスパートナーだった不動産会社及び子会社の連鎖倒産の一方的な通知により、イケゾエガレは「俺の中国深圳・香港での武者修行はこれでひとまず終わりだ。良い社会勉強になった」と自分の心を一区切りさせると並行輸輸出入の貿易会社を潔く清算させ、中国深圳市から故郷の姫路に帰国した。

思えば彼が知見を広げるために中国に赴いて2年半の歳月が過ぎていた。

一方、「リスクヘッジ」という本当の意味を知らない毒親マサトが経営していた中古車の輸出業(もちろん資金元はイケゾエガレ&ロミオ兄弟だ)は、極度の円高になって破綻した。幸いにも事業負債がなかっただけが救いといえよう。

リーマンショックの煽りを受けたといえども、事業破綻だけで済んだのだから感謝すべきところをこの守銭奴は「今畜生め! せっかく利益もでていたのに! リーマンのせいで赤字になっちまった!」と自分の悲運を嘆いた。

本来、ビジネスは将棋のように数十手先を見ながら安全運転(経営)をしなければならない。為替が絡むのならば猶更であって、そもそも為替に影響されるようではビジネスとはいわない。それは「ビジネスではなくギャンブルというのだ」と出資元のイケゾエガレ&ロミオ兄弟は父親の背中をみて思う。

同じ事業破綻を異国の地で経験してきたイケゾエガレは「良い社会経験になった」と捉えて前を向く。確かに彼の事業が成功していれば年商数十億円の事業になっていたと推測できるが、失敗の原因は他人ではなく自分の「社会経験不足」であり、社会経験不足だからこそ成功しなかったのだと素直に認めていた。

青年は失敗の原因は自分にあると捉え、老いたる人間は失敗の原因は他人にあるとほざく。

そして2年半ぶりの帰国にも関わらず、イケゾエガレの姿を見ても「お帰り」の挨拶もなければ、父親として労う言葉もなく、疲弊したガレの姿を見るなり「明日からロミオのところで働くんだぞ! それから実家にきちんと食費代は入れろよ!」と想定したどおりの言葉を投げかけてきた。

イケゾエガレ&ロミオ兄弟がジュエリー事業「宝石商イケゾエガレ」を軌道に乗せようと孤軍奮闘する中、中古車事業が事業破綻した父親マサトは知人を通じて大手スーパーマーケットの中でたこ焼き販売に従事した。その稼ぎは微々たるものであったが、文無しよりは遥かにマシといえる。

「たこ焼き」という言葉で思いだすのは、父親の惣菜業を立て直すために従事した数年前だ。

数年前、否応なしに父親に命令されてイケゾエガレ&ロミオ兄弟は「生きる」ために必死にたこ焼きを焼いていたが、今はその当人である父親が生きるためにたこ焼きを焼いているかと思えば、まさに「因果応報」という言葉が似合う。

あのときの稼ぎもすべて毒親マサトが奪い取っていたが、いざ自分がその立場に追いやられたのだから人生は平等であり、やはり努力は裏切らないと兄弟は心底思う。

そんな父親も雇われ露天商で落ち着くのかと思えば、そうではなかった。

父親の同僚がたこ焼きを焼いている最中、心臓発作を起こし、鉄板の上でたこ焼きではなく、自分の顔を焼いて突然死した姿を目の当たりにしたことから、身の上の恐怖を感じた父親マサトはその日に「わしは鉄板の上で死にたくないので、本日限りで辞めさせて頂きます」と知人社長に辞表を出した。

イケゾエガレは中国深圳において、父親が経験した以上の多くの人の死を何度も目の当たりにしたが、一切逃げなかった。深圳でのライセンス事業は残念ながら不成功に終わったが自分の舞台からは逃げなかった。

父親マサトは残念ながらそうではなかった。

身の危険を感じれば、動物的本能のままに今ある自分の舞台から逃げ出した。

男は家族の生活よりも自分の命が何よりも大事であり、どんな犠牲を払っても「自分の利益を優先する男」だということが行動をもって見事に示したわけだが、それは「行動は言葉よりも雄弁に物語る」の西欧の諺とおりだった。

根性なしの上に根無し草とはまさに父親マサトのためにあるといってもよい。

第五話
束の間の休息に続く
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