去年の細見美術館での琳派の展覧会以来、久しぶりの京都である。
来京した理由は国立博物館で開催されている雪舟の展覧会のためだ。
展覧会の内容だが、水墨画という独特のモノクロームの世界観ゆえなのか、作品と鑑賞者の間に何かしらの融合感があり、じつにボリューム感にあふれた大変に見応えのある展覧会であった。
さすがに国宝や重要有形文化財に認定されている作品には品格の華があり、後代から批評ができない程の良い出来栄えだと感じざる負えず、素直に敬意を表したい。
雪舟の卓越した描写力とすぐれた意匠力は、あの浮世絵師として名高い葛飾北斎と匹敵するほどの画力であった事を確認できた次第である。
一方、雪舟に影響を受けた画家たちによる模写及び模作も展示されていたが、その作品群は精巧な模しであり原画に迫る精密さがあったが、私には迫力に欠けた「凡作」に思えた。
精巧な模写であろうと雪舟の生命力ある原画には到底及ばない。
なぜなら本物には本物として品格、つまり最高峰としての作家の妙なる気迫や気韻生動が作品に宿っているからだと思えてならない。
これぞ画聖が画聖たる所以であり、雪舟が雪舟たる所以なのか。
中華発祥とはいえ水墨画は、日本人の侘寂の心情とあい重なり、また風土特有の風情に醸成されてきた、わが国伝統の美意識と合致しているようにも思える。
その意味合いから日本の水墨画は、画による「侘び寂び表現」と言い換えて表現ができる。
歴史を紐解くところ、日本の絵画及び美意識遺産を作り上げてきた名だたる画人たちの根底には、この画聖の存在がある事は歪めない事実であり、雪舟はわが国文化の形成の途上において一翼を担っているといっても過言ではあるまい。
まさに雪舟等楊は日本の画祖であり模範となる存在だ。
この唐と宋の雰囲気を感じる「中華の精神性」とその大陸的な優雅な作風は、常に作品の模写が繰り返させられてきた観点から多くの画人の憧憬の的であり、カリスマ性を帯びた評価として今日に至っているのだと思う。
あの琳派の巨匠たる尾形光琳さえ、江戸滞在時に雪舟の作品を模写をしていた事も留意しておきたい。
私見ではあるが、琳派と侘寂は趣が全く相反する形式であるものの一つの美意識が根底にて繋がっているように見える。
それにしても日本の水墨画は、本場中国の水墨画に比べて、どこか角が丸みを帯びている趣があり、一種の愛嬌さと懐しみを感じるのは私だけではないだろう。
江戸時代において、最終的に「雪舟の精神性」を受け継いだのは曾我蕭白等の雲谷派の画人たちと言えるが、この画聖が遺した美意識観を如何にして自身のDNAに継承し発展させ、新しい美意識として表現していくのかは現代作家たちの力量といえよう。
文:イケゾエロミオ 編集:琳派編集部