青葉の季語が似合うこの日、企画展「フィンランド・グラスアート-輝きと彩りのモダンデザイン」のため、私は日本六古窯の一つ、丹波立杭焼の産地へと赴いた。
同産地は日本遺産に登録されている伝統と歴史を重んじる地である。
JR山陽本線の姫路から尼崎へ、そこからJR福知山線に乗り換えて、私は篠山口に下車した。
駅の到着時間は8時45分、気がつけば姫路駅から2時間ばかりが過ぎていた。
もはや小旅行といった心躍る気分である。
篠山口に到着後、そこで待ち合わせをしていた数奇者の友人たちと共に彼らの車に乗車し、私たち一行は企画展の会場である兵庫県立陶芸美術館へと赴いた。
気疲れした汗ばむ私の心を癒したのは、緑に萌える和モダン建築の建造物群だった。
いわゆる兵庫県立陶芸美術館だ。
それは日本現代建築の巨頭である安藤忠雄氏による設計だ。
安藤氏といえば、言わずと知れた日本を代表する大建築家であるため、今回は氏の作風は割愛しよう。
展覧会の感想だが、北欧諸国の一国フィンランドに暮らす人々の生活美に深く感銘した。
シンプルにして美しく、そのなかに純なる精神性を感じる北欧の美学。
北欧といえば、私はスウェーデン発祥にてオランダを拠点とする世界的家具メーカーのイケアブランドを連想するが、かのブランドの遺伝子の奥底を覗きみた思いである。
自然と人間の互恵関係を構築してきた「様式の美」とされるのがフィンランドの美学だ。
自然との関係性を大事にする北欧の民族性ともいえる。
自然との互恵関係といえば、私が小さいときに母に読んでもらったフィンランドの童話作家トーベ・ヤンソン著の「ムーミン谷のなかまたち」のなかにも確かに存在している。
幼き頃は分からなかったが、今思えば彼女はフィンランド人の自然をこよなく愛する精神性と美しさを物語の中で表現していたのだろう。
自然への畏敬の念は日本人にも馴染みのある考え方であり、心の底から共鳴できる精神性ともいえる。
そのなかで私は、日本人特有の侘び寂びの美意識に想いを馳せた。
侘び寂びといえば、無駄を省いた素朴な美意識であり、静の美意識という観念で世間一般では知られている。
無駄を削ぎ落した美学「シンプルザベスト」という考え方にも近いものだ。
しかし角度を変えれば、侘び寂びは「ものの哀れを感じる悲観的な価値観」とも言える。
日本美意識が「引き算の美意識」といわれる所以はそこにある。
この引き算の概念は、意外かもしれないが「仏法思想の自然と人間の関係性の概念」から生まれている。
要約すれば「侘び寂び」の概念は、自然美から生まれているのだと私は個人的に推測している。
日本人の四季折々の思いや名残り、すなわち日本人特有の自然への畏敬の念とインド発祥の仏法思想の死生観である輪廻転生が出会い、融合した生活美意識ではなかろうか。
つまり滅亡から再生そして滅亡である。
これが日本の美意識の根底にある哲学の一つといえる。
この様に仮説を立てたとき、侘び寂びの概念は決して世間一般で称されるような「悲観的な美意識」ではなく、過去現在未来と思いを馳せることのできる究極の美意識なのだと私は感じた。
それは今日一日を悔いなく過ごすための美意識でもある。
確かに誰しも生きているかぎり、残念ながら他者と比べて卑屈になる事がある。
しかし日本人が自然との共生の中で生み出した日本人観である「侘び寂びの概念」は、飾ることのない素朴なあるがままの自分自身を全肯定し、自分自身を誇り高く生き抜くために役立つ生活美だといえる。
自分が歩んできた人生を一切否定することなく全肯定し、他者ではなく、ありのままの自分の人生に美を感じるのだと思う。
このような想いを胸に抱いて、私たちは兵庫県立陶芸美術館を後にした。
文:イケゾエロミオ 編集:琳派編集部